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育成委員エッセイ  夢見るどじょう

 春からの制限された環境の中で、できることは何かと考えた時、自分を掘り下げること、磨くこととして、書物に親しむことが大切だと思い、少しばかり、お道の本や一般書物に触れてまいりました。そうしていると、ふと、若いときに出会った本をもう一度、手に取りたくなりました。

 

 まずは、志賀直哉の短編小説『正義派』。小さな女の子が電車にひかれ、それを目撃した3人の工夫の話。当初の事故内容とは違って、運転手の過失を裏付ける目撃証言をした3人は、そのあと、正義に基づいた自分たちの行動の為に、生活が成り立たなくなってしまうという現実との狭間に揺らいでしまう。正しいことが認められない理不尽な社会。学生だった当時の私は、神様は見ていてくださるという確信や喜びが、果たして自分にあるのか、ないのか。「正義」として行動するのか、それとも「正義派」としてなのか。もやもやした気持ちが、かなり長く続いたのを憶えています。

 

 続いての本は、司馬遼太郎の『空海の風景』。仏教の真言宗の開祖である、弘法大師こと空海を描いた歴史小説。密教を確立するため遣唐使の船に乗り込み、中国・唐で密教の師から数多くを学び、帰国してからは精力的に、真言密教を多くの人に教えつつ、国の精神的支柱としての存在を確立しながら、更なる布教伝道に力を入れていきます。それと同時にもう一面、彼の大きな功績があります。故郷香川にある満濃池の修復工事など、橋や道路などの整備をも、中国からの知識をいかして行っていたことです。宗教を求め究める人間は、何もそのことだけでなく、泥にまみれて汗水を流し、人々と苦楽を共にする行いも必要なのだと、この偉大な人物を通して確認することができました。今でも、頭でっかちにならないように、と思えるのはこの本のおかげかもしれません。

 

 教会に生まれながら、信仰生活というものに実感がなく、たいした苦労もなく、学生時代を過ごしていた時に、ガーンと頭に一撃を受けた本がありました。遠藤周作のキリスト教文学『沈黙』。日本に布教に来たポルトガル司祭が捕らえられ、殉教するか、棄教するかを迫られるとき、拷問を受ける日本の隠れキリシタンの人たちの苦しむ声に、それまでの信念が揺らぐ。そんな折、師と仰ぎ、自分たちよりも前に布教に来ていた元司祭が、「自分もあの声を聞いて棄教した」ことを吐露する場面。学生時代、信仰も何もわかっていなかった若造にとっては、強烈な場面でした。沈黙する神の存在。その働き、御守護の世界を信じる人間。その時、どれ一つとして理解できていない自分が、信仰の入り口にたったような気がします。命をたすけること、たすかること。いまだに何もできていない自分ですが、この本を意識すると、布教師として、おたすけ人として、「今のままでいいのか?」とつきつけてくれる大きな役割となっています。

 

 人との出会い、物事・事件などとの出会い。様々あると思いますが、本を通しての出会いも、人にとっては、かけがえのない出会いとなります。皆さんが出会った本について、そのうち、語りあいたいものです。

 

  P・N 夢見るどじょう