みなさんこんにちは、今月の信仰エッセイを担当する「カメ吉」です。
みなさんは、何か良いことを続けていることがありますか?
私はいくつかあります。
その中の一つが、誕生日に本を贈ることです。
甥や姪、その子供たち(甥や姪の子供を姪孫(てっそん)と言うそうです)の誕生日に本をプレゼントしています。本を贈るのは中学三年までです。
始めてから四十四年になります。
何故、本を贈るようになったかと言いますと、私が小学校高学年の時に、何年生だったかは忘れましたが、親から本を贈って貰いました。
その時の喜びは今でも忘れません。
それで、子供には本を贈ろうと思っていたのですが、如何せん私には子供が居ませんので、甥や姪、その子供たちに本を贈ろうと思ったのです。
私は、親から本を贈って貰ってから、本が好きになりました。
それで、甥や姪たちに、本を好きになってもらおうと思っています。
天理教を「おみち」と云います。
みちは続いているものです。また、続いてこそみちという、とお聞かせいただいています。
おふでさきに
このさきハみちにたとへてはなしする
どこの事ともさらにゆハんで 一46
やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら 一47
まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり 一48
と、あります。
私たちは、初代の信仰の方もおられると思いますが、ほとんどが三代、四代、五代ではないでしょうか。
私たちが、今こうして何不自由なく信仰が出来るのも、初代や二代の人々が艱難苦労の中を通って、信仰を続けてこられたからではないでしょうか。
続けると云えば、日参を思い浮かべます。
日参と云うのは、信者さんなら教会に、教会なら上級教会に毎日参拝することです。運ぶと云います、身体を運ぶ、心を運ぶことです。
日参することにより、神様との道がつながるのだと、私は思っています。
毎日続けることは大変なことです。雨の日も雪の日もあるでしょう、突然の用事が出来る事もあるでしょう。
でも、それを親子二代に亘って五十年以上も日参を続けてこられた方がいます。
私の義理の兄なのですが、浪岡分教会へ日参を続けています。自分が行けなければ嫁さんを、嫁さんも行けなければ娘に頼んで、日参を続けています。
私はと云うと、今までは浪岡は遠いのでと言い訳をしていたのですが、このコロナ禍をきっかけに、浪岡に行けない時は郵送で日参をしています。
何かを続けることは大変ですが、工夫をすることにより、出来る事があるものです。
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