· 

2022年 春季大祭神殿講話 大教会長

 本日は、冬の寒さが厳しい中にも結構なお日柄をいただいて、皆さんにはそれぞれお忙しい中を、また、コロナウイルスによる影響の大変な中をも、遠近を問わず春の大祭にご参拝をいただきまして、誠に有難うございました。また、日頃はお道のご用の上にご丹精を下さり、誠に有難うございます。本日の春の大祭には、祭典後より記念祭に向かっての教会長夫妻・布教所長決起大会が予定され、そして、明日には教養掛研修会が開催されるということから、いつもよりたくさんの参拝者をいただくことができましたので、大変有難く嬉しく思っております。そして、城山につながる皆さんには昨年の一年間、大教会へたくさんのお力添えとご真実をいただき、大変お世話になりました。今年一年もよろしくお願い致します。

 時が経つのは本当に早いもので、今年一年がスタートをして三週間が経ちました。年が明けてめでたく元旦を迎えられた時には、皆さんそれぞれと目標や心定めを神様にお誓いをし、心晴れやかに今年一年が始まったことだと思います。そして、昨年はコロナウイルスによる先の見えない不透明な状況が続く中、手探りで少しずつ前に進んできた一年であったと思います。

 さて、今年は令和四年・立教百八十五年となります。そして、干支は寅年です。ちなみに、うちの家内は寅年で今年年女なんです。そんなことから、今年家内が張り切り過ぎるのではないかと、一抹の不安を感じております。そこで、寅年の人の一般的な性格というのは、感情的になりやすいとのことですので、自称亭主関白な私も、今年の一年だけは家内の感情を刺激しないように、細心の注意を払って過ごしていきたいと思います。寅年の言い伝えやいわれを話しますと、「寅、千里を駆ける」という言葉がありまして、これには夢に向かってがんばろう。夢に向かって一目散という意味があるそうです。ですから、私達も今年は大教会の記念祭に向かう、三年千日二年目の旬に当たりますので、今年一年この大きな目標に向かって、皆さんと勇んでつとめていきたいと思います。

 本日は神殿講話ということですので、届きませんが、しばらくの間お時間お付き合い下さいますようお願い致します。只今は皆さんとご一緒に、春の大祭を結構につとめさせていただきました。春の大祭は、教祖が子供可愛いとの親心から定命を二十五年お縮めになり、現身をお隠しになられた、明治二十年陰暦正月二十六日の大きな節を、元一日としてつとめる大祭であります。

 明治二十年陰暦正月二十六日、教祖のご身上が迫ってまいりましたがそれにも拘わらず、教祖はおつとめをお急き込みになられました。この日も近郷近在から大勢の参拝者が来られたのですが、官憲の目は非常に厳しくて、一つ間違えばご身上の教祖を拘引しかねない状況でした。そして、その状況を眞之亮様をはじめ、周りの人達も非常に心配をされまして、板ばさみの立場にあった訳です。しかし、そんな中教祖から、「律が怖いか、神が怖いか。」と、「お前達は法律が怖いのか、親の話が尊いのか、どちらに重きを置いて信心をしているのか、この点をよく考えなければいけない。今の刻限は、もう尋ねている時ではない。これだけ言うたら分かるであろう。」とのお言葉があったのです。そこで、一同ようやく心が定まり、正午頃から鳴物を入れてつとめることになりました。もし、おつとめをつとめている時に警察が来て拘引されてもいいように、下着を重ね、足袋を重ねて、命捨ててもという者だけでおつとめにかかったのであります。そして、おつとめはかんろだいぢばを囲んで行われ、なぜか心配していた警察の妨害もなく、おつとめを無事に終えることができました。しかし、そのことと立て合って、おつとめの鳴物を満足気に聞いておられた教祖でしたが、午後二時頃おつとめの終わると共に、眠るが如く現身をお隠しになられたのであります。

 この時のおつとめは、鳴物が揃っていなかったのではないかと想像されています。また、ご婦人がつとめるはずのお役を、男がつとめたとされています。しかし、警察の妨害がなかったということは、たとえ形の上では十分でなかったとしても、教祖の仰せのままに人間思案を捨てて、我が身を忘れて神一条におつとめになられた人達の真実を、親神様がお受け取りになられたのだと思います。

 先程もありましたように教祖は、明治二十年陰暦正月二十六日の午後二時頃、眠るが如く現身をお隠しになられました。そこで、この春の大祭の元一日を忘れないようにする為に、いつも心に治める為にとの二代真柱様の思いから、おぢばで二時のサイレンが鳴らされているのであります。このサイレンの由来というのは、昭和三十一年教祖七十年祭がつとめられ、おやさとやかた真東棟が建ち上がりました。この年三月八日教祖殿御用場に於いて、第十六回教義講習会第一次開講式におけるお話の中で、二代真柱様は次のようにお話下されております。「今日からこの七十年祭の年である今年いっぱい、二時を期して、本部のサイレンを鳴らしたいと考えております。存命のまま御守護をいただくように切り替わったのが、明治二十年陰暦正月二十六日午後二時と裁定致しまして、各自各自の心の反省と申しますか、神一条の理によって、心を陽気の道へ向けるよすがに致したいと存じ、今日から本年いっぱい毎日二時に本部のサイレンを鳴らす事に致しました。」と、このように仰せ下されたのであります。そして、このサイレンは、最初は消防車のサイレンのような音だったそうですが、この年の七月七日から、今のよろづよ八首のメロディーに改められ、今日に至っております。

 私達もおぢばに帰らせていただいた時には、この二時のサイレンを聞いて、ただ単に教祖殿に向かって手を合わすだけでなく、春の大祭の元一日、教祖がいかにおつとめをお急き込み下さっているか、いかに陽気ぐらしへの道をお急き込み下さっているかということを教祖に心を向けながら、お互いの緩みがちな心のネジをしっかりと巻かせていただきたいと思います。

 今日は春の大祭を結構につとめさせていただき、おてふりと鳴物がしっかりと揃って、とても勇んだおつとめでした。しかし、コロナウイルスの影響からコロナ対策として、マスクを着用しアクリル板を据えたり、密を避ける為に間隔を空けて座ったりと、少しの不自由がありました。けれども、教祖ご在世当時の月次祭と比べれば、警察に連れて行かれ監獄所に入れられることもなければ、命捨ててもとおつとめをしている人は誰一人いない訳であります。だから今は当時と比べものにならない位に平和に自由に、当たり前のようにおつとめをさせていただいているのであります。ですから、私達お互いは、教祖が現身をお隠しになられるまでお急き込み下されたおつとめを、感謝の気持ちを持ちながら、神一条の精神で一手一つにつとめさせていただくことを、春の大祭の吉日に皆さんと堅くお誓い申し上げたいと思います。

 さて、話は変わりますが、国連が昨年の三月二十日に、2021年・昨年の世界幸福度ランキングというものを発表しました。これは、毎年三月二十日の「国際幸福デー」に合わせて発表している、ランキングデータであります。調査は世界の150か国以上を対象に行われ、2012年から毎年実施されています。この調査で用いられるのは、一人当たりの国内総生産・社会保障制度などの社会的支援・健康寿命・人生の自由度・他者への寛容さ・国への信頼度などで、これらのことから生活への満足度を調べて、そのデータからランキングを決めているとのことでした。それでは、世界で一番幸せだと感じている国はどこでしょうか?1位がフィンランド、2位がデンマーク、3位がスイスという結果でした。では我が国日本は何位だったのか?とても期待をするとこですが。残念ながら期待通りにはいかず、153か国中56位ということでした。

 昨年の調べでは、日本の経済力は世界第3位、平均寿命は男性が81歳・女性が87歳で世界第1位とのことで、そして、100歳以上の方が8万6000人もおられるそうです。私達の国はこれほど経済力があって、これほど長生きができる。また、外国と比べて治安が良くて暮らしやすく恵まれた国なはずなのに、幸福度56位幸せを感じる人が少ないことに不思議でなりませんでした。そして、今の時代恵まれ過ぎたことによって、感謝する気持ちが少しずつ失われつつあるようにも感じます。この結果はコロナウイルスの影響や、他にもさまざまな要因がもちろんあるとは思いますが・・・・

 それでは、幸せとはどういうことなのか?幸せには四つの定義があるそうです。「一つ目は目標を達成したり、目指すべき目標を持ち、学習・成長していること。二つ目は多様な他者とつながりを持ち、他人に感謝する傾向、他人に親切にする傾向が強いこと。三つ目はポジティブ・前向きに物事を捉え、細かいことを気にしない傾向が強いこと。四つ目は自分の考えが明確で、人の目を気にしない傾向が強いこと。」と、このようにあります。  

 そして、ある方の幸せの名言ですが、「幸せな人は今、目の前にある幸せに気づける人。どこかで幸せが遠くにあるのではなく、この瞬間にあることを知っている。それに気づけるかどうか。今ある環境に感謝すること。」と、ありました。このように幸せを感じるのには、感謝をすることが大切だということがわかります。したがって、感謝をさせていただくことによって、幸せを感じることができる訳ですので、感謝と幸せは表と裏で、二つ一つであると思います。

 私達は毎日の暮らしの中で、親神様のご守護のお蔭・産み育ててくれた親のお蔭・周りの人達のお蔭のもとに、結構に通らせていただいているお互いであると思います。ですから、このお蔭に深く感謝をしなくてはなりません。その感謝も自分自身だけで感じるものではなくて、感謝の言葉にはありがたいな・けっこうだな・もったいないな等の言葉がありますが、この感謝の言葉を周りの人達と掛け合っていけば、明るい家庭や明るい教会や明るい世の中へとつながっていくのではないでしょうか。ですから、その輪を私達から広げさせていただきたいと思います。そして、この感謝の気持ちを大きなご恩と受け取って、そのご恩に報いさせてもらえるようにつとめることが、私達の信仰の道であります。

 以前の秋季大祭の神殿講話で真柱様は、「十全のご守護を常々喜び、感謝して通る者と、それを知らずに当たり前と思い、欠けている点にしか目がいかず、環境や人を批判して不足不満で過ごす者とでは、長い年月の間に、そのお受け取りいただくところには大きな違いが生じてくると思います。(中略)私たちが日々頂いているご守護のありがたさは、どれほど感謝しても感謝しきれるものではありませんが、しかし、その感謝が喜びとなりひのきしんの勇みとなって表れ、をやの思いを叶えたいという、にをいがけ・おたすけに向かわせるのであります。」と、このようにお話下されました。

 今年は大教会創立百三十周年記念祭に向かう、三年千日の二年目の旬になります。そして、記念祭の活動方針は、「過去にありがとう・現在にありがとう・未来にありがとう」の感謝の心を神様におつなぎしながら、私ができるありがとうを形にさせていただくことであります。ですから、この旬に今年一年も昨年に引き続きこの活動方針を目標にして、記念祭に向かって感謝の心を持ちながら、旬を追い風にして自分にできるにをいがけおたすけに、一手一つにつとめさせていただきたいと思います。

 現在コロナウイルスの影響が再び深刻となり、不安や心配を感じるところであります。しかし、今日の春の大祭にはそれにも拘わらず、この状況の大変な中を、私が思っていた以上の参拝者を頂くことができました。コロナウイルスはいわゆる感染症の一つですが、お道の先人の先生方の時代にも、コレラや疱瘡という感染症がありました。当時は今と違ってお金や物のない時代で、しかも、医療が整っていない頃でしたので、本当に大変な中だったと思います。しかし、その大変な中を先人の先生方は、教祖のひながたを頼りに勇んでお通り下され、そして、そのご苦労下されたお蔭の上に、今日のお道が結構にある訳であります。

 おふでさきに、

  このみちハどふゆう事にをもうかな

  このよをさめるしんぢつのみち(六 4)

とお教えいただきますので、現在のこの節の中でも先人の先生方のように、私達一人ひとりが教祖のひながたを頼りにこの道を信じて勇んで通る中に、必ず治まりのご守護をいただけるものだと思います。ですから、この道をしっかりと信じて、少しでも成人させてもらった姿を親神様・教祖にご覧いただけるよう、日々の歩みを進めさせていただきたいと思います。

 最後になりますが、今月のはじめに諸井世話人先生を通して、城山大教会立教百八十五年の心定めを、ご本部へ提出させていただきました。そして、本年の心定めを、初席者数三十名、ようぼく数二十名、修養科修了者数十五名、教人数十名、御供年額千七百万円と定めさせていただきました。どうか、この心定めが達成出来るように、おぢばへのご恩報じの上に、お力添えとご丹精をいただきますことをお願い申し上げて、神殿講話とさせていただきます。ご静聴有難うございました。