· 

2023年秋季大祭 大教会長挨拶

 本日は秋らしい結構なお日柄を頂いて、皆さんにはそれぞれお忙しいところを、遠近を問わず秋の大祭にご参拝を頂きまして、誠に有難うございました。また、日々は教祖百四十年祭、大教会創立百三十周年記念祭に向かって、たくさんのお力添えとご丹精を下さり、誠に有難うございます。

 本日の秋の大祭は日曜日と重なったということで、いつもよりたくさんの皆さんにご参拝を頂くことができ、また、少年会のこども達も来てくれましたので、とても賑やかで大変有難く嬉しく思っております。そして、お陰様で先日神殿の参拝場の畳と、お御簾が新しくなり、そうした結構な中に諸井世話人先生のお入り込みを頂き、只今秋の大祭を皆さんとご一緒に、勇んでつとめさせて頂くことができました。

 私達の信仰するこの道は、天保九年十月二十六日、教祖お一人から始められました。教祖お一人から始まったこの道が、今日のような大きな道になったのは、誰もが教祖のご苦労のお蔭が一番だと感じていると思います。けれども、教祖を支えられたご家族のご苦労も忘れてはなりませんので、立教の日を迎えるに当たって、教祖とご家族の通られた道を改めて振り返ってみたいと思います。

 教祖は立教以来月日のやしろとなられてから、教祖のひながたは、貧に落ち切ることから始まりました。ところが、教祖は中山家にとっては主婦の立場で、当時の常識からすれば、あくまでも他の家から嫁いできた身であります。現代と違い家中心の考え方が当たり前のように存在する中で、教祖ご自身の持ち物はともかく、嫁ぎ先の財産に手を付けるということは、当時の社会模範からすれば、いかがであったのでしょうか。普通なら離縁となっても致し方なかったように思います。しかし、夫・善兵衛様は離縁なさならかった。世間からの嘲笑や避難を受ける中、なぜなのか?ただ単に夫婦の絆などでは済まないような気がします。立教の時の、「みきを差し上げます」との、親神様と交わした約束を、守り通されたのでしょうか。当時の善兵衛様にとって、親神様の世界たすけの思召しと、月日のやしろの立場である教祖を、どのように感じておられたかは分かりませんが、善兵衛様は最後まで定めた心を守り通されたのであります。

 長男である秀司様ですが、教祖が月日のやしろとなられた時は、十八歳でありました。十八歳といえば、もうすでに中山家がどういう家なのか、どれほどの田畑を持ち、財産はだいたいどれくらいか、自分は将来どんな立場になっていくのかは十分に理解もし、ある程度覚悟もされていたことだと思います。

 ところが立教以降、それまで想像されていた将来は一変することになります。人並み外れ優れた母親であったはずの教祖が、親神様の思召しのままに家財を手放し、家屋敷を取り払い、貧しい人や困っている人へ、施しに明け暮れされるようになられたのであります。そこで親族たちは、教祖の常識から外れた行動や言動を時には厳しく責め、叱責していくようになりました。

 中山家の母屋が取り払われた後貧のどん底になっていく中、秀司様は、教祖の言われるままに木綿の紋付を着て、青物や柴の商いに出られたといいます。そこで、村人達が秀司様のことを「紋付さん、紋付さん」と呼んだのは、親しみを込めてだけではなくて、あざけりの気持ちも含んでいたのだと思います。そして、それを秀司様はどんな気持ちで聞いておられたのでしょうか。

 末女のこかん様ですが、こかん様は、立教の時は二歳(満零歳十一ヶ月と二日)でありましたので、まだ教祖の乳房におすがりであった頃だと思います。その後、教祖が親神様の「貧に落ち切れ」とのお声のままに、施しから貧に落ち切る道を通られる中で、お育ちになった幼いこかん様は、教祖に対する親戚知人の激しい反対や村人達の嘲笑も、お聞きになられたことだと思います。娘盛りの時には、村の祭りの道行く神輿を、一人淋しく土塀の陰から眺めておられたといいます。しかし、そんな中でも父善兵衛様が、世間の人々の批判や嘲笑の矢面にお立ちになりながら、真剣に教祖をお見守りなされるお姿から、秀司様とこかん様は、自然に教祖のご使命の尊さを肌で感じ身につけて、多感な年頃を素直に難渋な中を通られたのであります。 

 中山家は、当時村一番の大きな農家で、当時の藩主から名字帯刀を許された名家で、お屋敷は二百数坪もあり、大勢の人々が働いておりました。名字帯刀を許されるということは、当時は武家政治の時代で、士農工商という階級制度が厳然としてあり、選ばれた農家には、姓を名乗り刀を身につけることが許され、武士に準ずる待遇を受けていたのであります。ですから、当時中山家がいかに裕福な家であったことがわかります。

 しかし、中山家は立教以来、親神様の思召しのままに、家財を手放し、家屋敷を取り払い、施しに明け暮れて貧のどん底の中を通られたのであります。そして、その中で夫善兵衛様は、一家を捧げて教祖のたすけ一条の一番の理解者であり協力者で、並々ならぬご苦労の中をお通り下されました。また、秀司様は、貧困の中に家計を支え、世間の迫害嘲笑に対しては、百方手段を尽くしてこの道が立つように努力され、こかん様は、母を慰め兄を励まし、この道のために一方ならぬご苦労をされました。このように、善兵衛様、秀司様、こかん様は、この道のために教祖の手足となって、教祖の道具衆としてご苦労下されたのであります。

 私達お互いは、教祖の道具衆であります。真柱様は諭達第四号の中で、「教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。」と、このようにお示し下さいます。

 今年はこの道が始まって百八十六年を数えます。私達はこの長い歴史の中で信仰しておりますが、教祖ご在世当時のように、おつとめをつとめることに警察に制限されることもなければ、自由に平和に当たり前のように、往還道の中で信仰させて頂いているのであります。そして、もしこの道がなかったならば、大げさかも知れませんが世間的な考えに流されて、自分のいんねんに振り回されてしまっていたかもしれません。そう思うと、信仰のお蔭で大難を小難に丁度良くして頂いているのだと、改めて有難く思います。そして、そのお蔭の元には教祖をはじめ、教祖の道具衆としてお通り下された、たくさんの先人の皆様のご苦労がある訳であります。ですから、私達お互いはこの道の歴史を今一度心に刻み込み、この道がこれからも途切れることなく続くように、教祖の道具衆として、自らのつとめをしっかりと果たしていくことを、教祖百四十年祭に向かって今日の秋の大祭の良き日に、皆さんと堅くお誓い申し上げたいと思います。

 最後になりますが、大教会創立百三十周年記念祭まで残すところ一ヶ月を切りました。城山につながる皆さんには、今日までたくさんのお力添えとご真実を頂きました。記念祭を打ち出してからこの三年間、過去・現在・未来にありがとうをスローガンにして、自分にできるありがとう形にしようと、感謝の気持ちを深めながら、成人の歩みを進めてまいりました。そして、おつとめ練習にも励ませて頂きました。この後、諸井世話人先生のご講話を頂戴しますが、おぢばのお声を素直に受けさせてもらい、記念祭当日には、感謝の心で一手一つにに勇んだおつとめをつとめさせて頂きたいと思います。そして、ご参拝を頂く皆さんに喜んで頂けるよう、お力添えを下さいますことをお願い申し上げて、秋の大祭の挨拶とさせて頂きます。有難うございました。